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太平洋戦争と私 ②

  • sumioyamashita2847
  • 2023年8月17日
  • 読了時間: 2分

戦争とは形態を変えた政治の継続といったのはフォン・クラウゼヴィッツです。

戦争論の著者です。


戦うのは兵士で、苦しむのは市民でも戦争にと突っ走るのはいつも政治家です。

クラウゼヴィッツの時代は政治決着がつかなければ武力衝突というのがまかり通ったのかもしれません。

しかし、21世紀も四半世紀が経とうかという現代で、その選択肢は捨てるべきです。

そもそも日本のように地下資源のない国は、元より戦争を選択肢に入れるべきではありません。ゼロ戦は松根油で飛んだかもしれませんが、現代のジェットファイターは飛ばないでしょう。

現在94歳の私の父は戦後、私の祖父がシベリア抑留中は、脳梗塞の影響で半身不随だった父の祖父と極貧暮らしでした。

祖父が平壌毎日新聞の社会部長で様々なコネもあり、本人も理数系に強く、成績優秀だったようで医専(現在の医学部)入学がほぼ決まっていたそうですが、戦後は体の不自由な自分の祖父と天草の地で畑を耕しながら学費も納めず学校に通ったそうです。(血を見ると卒倒するような人なのでどうせ医者は無理だったと思います。)


中学の時、ずっと破れたズボンを履いていたら見かねた校長が新しいズボンをくれたというくらいの貧しさだったようです。


平壌ではそれなりに良い暮らしをしていたそうですが、引き上げてきてからは極貧で、勉強したかったのに『勉強なんかする暇があれば畑を耕せ』とじいさんに怒られていたと言っていたことを覚えています。

成人後も、敗戦が決まったとたんに掌を返したように我さきと逃げ帰った政府の人間に対する不信感は根強く、国家に全幅の信頼を寄せることをよしとしていませんでした。

そのせいでしょう、若いときは左翼運動に走り、警察のブラックリストにも載っていたようです。


そうした父の願いは、子どもに教育を受けさせることだったので、私は学生時代、授業をさぼってまでアルバイトするようなこともなく、せっせと授業に出席していました。


父の分まで勉強したとはいいがたいのですが、その父と母が払ってくれた授業料が無駄にならないようにはできたと思います。

教職課程も取り196単位も取って卒業したので、父が戦争で砕かれた思いをいくらかでも実現できたと思います。

 
 
 

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